Saturday, December 17, 2016

協立病院のクリスマス


12月10日、豊かな命キリスト教会が松本駅の近くにある協立病院で患者さんなどに仕えました。他がクリスマス・ソングやストリーを分かち合い、私(写真)は、短いクリスマス・メッセージ(ネーセン・ノーマンのクリスマス)をしました。一人一人が祝福されるように、毎日祈っています。

聖書・マタイ1:21、「『マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」

Monday, December 12, 2016

ネーセン・ノーマンのクリスマス



数年前、家族と一緒に「ビートたけしの『アンバリバボー』」を見ていました。そこで、脳と脊髄の腫瘍のガンを患う(わずらう)9才のネーセン・ノーマン君の話しを見ました。感動的でした!

ネーセン君は、四ヶ月も命が無い事を告げられました。そこで、クリスマスの四ヶ月前から、家族と多くの近所の方が、毎日のように、彼の為にお祝いをしました。。。また、彼は「警察官からクリスマスカードが欲しい」と言って、そのEメールが全米に渡りました。100台のパトカーと250人の警察官が彼にあいに行きました。。。オバマ大統領の就任式にも招待されました。。。ネーセンは、アメリカ中からプレゼントをもらいました。が、逆に、彼は、他の必要のある子に上げました。で、彼の笑顔が絶えなかったのです。

話しが終わらないのです。クリスマスのクリスは、キリストを指しています。マスは、崇める。キリストを崇める。ネーセン君の家族がこう言っています。「この苦しみを通して主(イエス・キリスト)を崇める事を学びました。。。ネーセンが癒されるように祈っています。が、(どっちか分かりませんが)この地上であっても、後の天国であっても、必ず癒されると知っています。。。神様は、ネーセンを(ガンと戦う)勇敢な戦士にして下さいました。。。(ガンをわずらっていても)主(イエス)は、それでも恵み深い方であって、毎日が奇跡であるのです。。。ネーセンがこんなに質のある人生を送れる事じたいが奇跡であります。」

この聖書の箇所がネーセン君のウェブサイトにありました。詩篇77:11−14「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。あなたは奇しいわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です。」

「主のみわざを思い起こそう」とあります。クリスマスは、神の偉大なわざの一つです。生ける神が人となられた出来事です。聖書・ヨハネ3:16にこうあります。「(天地を造られた)神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(とその身代わりの十字架)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ネーセンは、まだ元気だそうです。最近、ネーセン君のフェースブックを見ました。こうあります。「ネーセンは、2009年からガンと戦って来ました。彼は、不思議な恵み、喜び、とイエス・キリストに対する信仰をもって(戦って)います。」ある新聞の記事でこう書いてありました。「(これは)真実なボーヤの物語です。彼は、いずれ、イエス様にあいます。でも、このボーヤは、(今は」イエス様の顔を見えてなくても、イエス様が生きている事を(今も)知っています。」

あなたも、このようなクリスマスの恵みに預かりますように。。。

ネーセン・ノーマン

Monday, December 5, 2016

GLS


先月の素晴しいグローバル・リーダーシップ・サミット信州大会に参加出来ました(松本地域)。およそ70人が来ました。ライブスピーカーは、真田茂人氏で、仕えるリーダーについて語りました。

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。。。『あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。』」聖書・ヨハネ13:3−5、13−17

Wednesday, November 16, 2016

マイク・ペンス次期副大統領


ドナルド・トランプが大統領になる事を聞いて、不安になる人は多いです。私も、彼の暴言を聞いて、超疑問に思いました。トランプは、変わらなければならないのです。。。でも、トランプが選ばれた後の言葉、行動と態度を聞いて、少し希望持ちました。人は、変わると信じていますから。

でも、もう一つ安心する材料があります。それは、彼の副大統領マイク・ペンスです。私と同様、ペンスは、クリスチャンです。彼は、大きなアイルランド系のカトリックの家庭で育てられました。ハンオーバー大学時代、彼は、キリストを心から信じたのです。彼は、こう言いました。「個人的にまた単純にキリストのために決心したのです。」彼の考え方をとても影響しています。ですから、ドランプにブレーキをかけ、良いほうに影響出来ると私は、信じています。

彼は「私は、平凡なクリスチャンです」と言っています。しかし「私は、全てをキリストに委ねました」とも言っています。彼は、人生の優先順位は次であると言っています。「クリスチャン、保守、共和党、その順番で。」* 先ず、クリスチャンである事が大事です。彼の政策と言動を大きく影響しますから。また、それによって、トランプを影響します。

でも、一番安心する材料は、次です。全ての創造主であるイエス・キリストが国々を含める全てを治めている事です。それを信じて、クリスチャンの大事な役目の一つは、国のリーダーの為に祈る事です。聖書の1テモテ2:1−3にこうあります。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

英語ですが、参考に:5 faith facts about Mike Pence: A ‘born-again, evangelical Catholic’ | Religion News Service

* 注意:他の敬虔なクリスチャンはこうも言えます。「クリスチャン、(政治的に)リベラル、民主党、その順番で。」これは、アメリカの場合。

Wednesday, November 9, 2016

キリストは、ただの偉大な教師?


「ここで私は、イエス·キリストについてよく人が言う、あのばかばかしいコメントを、もう誰もが言わなくなるようにしたいのです。つまり、“私は、イエスは、素晴らしい教師としては受け入れられるが、彼が神であるという主張は、どうも受け入れられない、”というコメントです。これは、決して言ってはならないことです。単なる人間でありながら、イエスの言ったようなことを言う者がいたら、それは、すばらしい道徳の先生なんかではありません。気違いか―それも自分のことをポーチドエッグだと主張するようなレベルの気違い―または地獄の悪魔同様の人物でしょう。あなたは、この方が、神の息子であるか、または、気違いか、さらにもっとひどい何者かのどれかという選択をしなければいけません。彼をただのばか者だと決めつけるか、つばを吐きかけ悪魔と呼んで殺すか、それとも彼の前にひれ伏して、彼を主である神としてあがめるかの選択です。しかし彼が(ただの)偉大な教師であるなどという、思い上がったナンセンスだけは言わないようにしましょう。イエスは、私達にそのような選択の余地は与えませんでした。そんな意図は最初からなかったのです。」C.S.ルイス

聖書・ヨハネ1:1、3「初めに、ことば*があった。ことばは神**とともにあった。ことばは神であった。。。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
*「ことば」は、文脈を見ると、イエス・キリストのこと。
**「神」は、聖書では、唯一で、万物を造ったお方。

キリストは、ただの偉大な教師?


「ここで私は、イエス·キリストについてよく人が言う、あのばかばかしいコメントを、もう誰もが言わなくなるようにしたいのです。つまり、“私は、イエスは、素晴らしい教師としては受け入れられるが、彼が神であるという主張は、どうも受け入れられない、”というコメントです。これは、決して言ってはならないことです。単なる人間でありながら、イエスの言ったようなことを言う者がいたら、それは、すばらしい道徳の先生なんかではありません。気違いか―それも自分のことをポーチドエッグだと主張するようなレベルの気違い―または地獄の悪魔同様の人物でしょう。あなたは、この方が、神の息子であるか、または、気違いか、さらにもっとひどい何者かのどれかという選択をしなければいけません。彼をただのばか者だと決めつけるか、つばを吐きかけ悪魔と呼んで殺すか、それとも彼の前にひれ伏して、彼を主である神としてあがめるかの選択です。しかし彼が(ただの)偉大な教師であるなどという、思い上がったナンセンスだけは言わないようにしましょう。イエスは、私達にそのような選択の余地は与えませんでした。そんな意図は最初からなかったのです。」C.S.ルイス

聖書・ヨハネ1:1、3「初めに、ことば*があった。ことばは神**とともにあった。ことばは神であった。。。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
*「ことば」は、文脈を見ると、イエス・キリストのこと。
**「神」は、聖書では、唯一で、万物を造ったお方。

Wednesday, November 2, 2016

望み



「全ての人間の額に書かれた神の言葉は『望みである。」ヴィクトル・ユーゴー 

‘The word which God has written on the brow of every man is Hope.' Victor Hugo



「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」聖書・ローマ5:5−6

ビクトル・ユーゴーは、小説「レミゼラブル」(噫無情)で有名です。映画レミゼラブルとミュージカルのレ・ミゼラブルをお勧めします。聖書のように、罪の赦しと希望が描かれています。

Thursday, October 27, 2016

『オレンジ』


映画『orange-オレンジ』は、私のふるさとの松本で撮影されました。
このようなところで。。。

あがたの森。私の実家の隣で、子供の頃よく遊びました。

田川高校。私の息子、ジャシュア、の高校。

縄手通。家内がバイトしているスウィートの通り。

弘法山。私たちの豊かな命キリスト教会の近く。

私も、見ました。お勧めします。

Thursday, October 20, 2016

妹ルシーがアメリカから来た!


安曇野ファミリーチャペルの百瀬兄姉と一緒

ルシーと一緒にジャン家とダビデ家が寿司をエンジョイ(上と下)

 楽しい一時でした。

Wednesday, October 12, 2016

「このとうとい授かりもの」


私たちは、相模原殺傷事件と尊い障害者を忘れてはいけないのです。相模原殺傷「忘れない」 障害者団体が神奈川宣言|ニフティニュース この次の詩を通して覚えたいです。


『天国の特別な子ども』
Edna, Massilla(大江裕子訳)


会議が開かれました。
地球からはるか遠くで。 
「また次の赤ちゃん誕生の時間ですよ」
天においでになる神様に向って 天使たちは言いました。
 この子は特別の赤ちゃんで、たくさんの愛情が必要でしょう。 
この子の成長はとてもゆっくりに見えるかもしれ ません。
もしかして 一人前になれないかもしれません。 
だからこの子は下界で出会う人々に とくに気をつけてもらわなければ ならないのです。
もしかしてこの子の思うことは 中々わかってもらえないかもしれ ません。
何をやっても うまくいかないかもしれません。 

ですから私たちはこの子がどこに生れるか注意深く選ばなければならないの です。
この子の生涯がしあわせなものとなるようにどうぞ神様 この子のためにすばらしい両親をさがしてあげて下さい。 
神様のために特別な任務をひきう けてくれるような両親を。 
その二人は すぐには気がつかないかもしれません。 
彼ら二人が自分たちに求められて いる特別な役割を。
けれども天から授けられたこの子によってますます強い信仰と豊かな愛をいだくようになること でしょう。
やがて二人は自分たちに与えられた特別の神の思召しをさとるようになるでしょう。 
神からおくられたこの子を育てる ことによって。 
柔和でおだやかなこのとうとい授 かりものこそ 天から授かった特別な子どもなの です

(木田盈四郎 1982『先天異常の医学』中公新書) 

参考‎:www.geocities.jp/takaochibi/sub-tenshi.htm

詩篇8:3−4「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

Thursday, October 6, 2016

「私を赦してくれる人は誰もいません。」


死ぬ前に有名なイギリス小説家ヒューマニスト、マルガニタ・ラスキー(Marghanita Laski)は、正直にテレビでこう言いました。「私は、あなたがたクリスチャンをねたみます。あなたがたは、赦されているのです。私を赦してくれる人は誰もいません。」

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」聖書・使徒の働き10:43

Thursday, September 29, 2016

私です。


英国の有名な新聞が質問を出しました。「この世界の何がまちがっているのか?」この問いに対して、クリスチャンの作家、評論家であるG。K。チェスタートンがこう返事を出しました。「記者殿、私です。敬具。GK・チェスタトン。」

直感に反することですが、あなたも、私も「私です」と言えますか?

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」聖書・ローマ3:23−24

Monday, September 19, 2016

「がれきの中に見つけた美」


見て下さい。「がれきの中に見つけた美」 on Vimeo 3・11の津波被災者の女性が浜辺のガラスのかけらをジュエリーに変えているのです。私の知り合いのパール・ネザコットが希望のメッセージを。

「。。。悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を。。。」聖書・イザヤ61:3前半

これも参考:「神の救いがもたらす大逆転」礼拝メッセージ熊本地震:クリスチャントゥデイ

Tuesday, September 13, 2016

阿寺渓谷でキャンプ


こないだ阿寺渓谷でキャンプしました。


シェーン、ジャシュアとホサーナーが釣り


奈帆と私が散歩

子供達が料理

阿寺渓谷は超奇麗 


Thursday, September 1, 2016

チャペル・コンサート


先週の週末、米国のコロンバス、オハイオから
トランペットを含める弦楽器グループが来ました。

 土曜日、協立病院で演奏。

日曜日、豊かな命教会で演奏。私が左。

詩篇 10:3「角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。」聖書・詩篇150:3

Monday, August 29, 2016

「ベン・ハー」


チャールトン・ヘストン主演の映画「ベン・ハー」のリメイクが来年日本に上陸します。『ベン・ハー』が最新技術でリメイク&2017年公開!圧巻の予告映像公開 | cinemacafe.net

ネットで調べて『1959年のベン・ハーのほうが良い』と言うことです。本の題は「ベン・ハー:キリストの物語」です。が、残念ながら、映画は、キリストのことをひかえています。評論家は、あまりプラスに評価していません。「ベン・ハーの生温いキリスト教」Ben-Hur’s Watered-Down Christianity - WSJ, や「なぜベン・ハーのリメイクは、昔ながらの信仰を思い起こさせないのか?」Why the 'Ben-Hur' remake doesn't give me that old-time religion - LA Times 

でも、見る価値は、あると思います。私は、家族皆を連れて行きます。がっかりするでしょうか?

「この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた。」聖書・ヨハネ1:14後半

Monday, August 22, 2016

ネイマール:100% JESUS


ブラジルのネイマールとそのチームがリオ・オリンピックで表彰台に立った時、これがネーマルのはちまきにありました。「100% JESUS」訳す必要はないです。。。女子陸上のアリソン・フェリックス は「私がとても若い頃イエス・キリストを親しい救い主として知る(信じる)ように成りました。」。。男子バスケットのケビン・デュラントは、バスケットを通して「神とその恵みを表したい」と言っています。。。女子体操のギャビー・ダグラスは「私は、全てを神に栄光を帰します!」とイエス・キリストを讃えています。

「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」聖書・1ペテロ4:11後半

Tuesday, August 16, 2016

メイガン


私のサングラスをかけるメイガン(兄の2才の娘)
やんちゃで、可愛くてしょうがないです。親バカではなく、叔父バカです。
数週間前、奈帆(家内)と私が兄達と一緒に安曇野市でランチ

Wednesday, August 10, 2016

NHKスペシャル「…..憎しみを越えて」


私の高校3年生の牧師、ジェイコブ・デッシェイザー、がNHKのドキュメンタリーに出ます。8月15日(月)8時からです。NHKスペシャル | ふたりの贖罪(しょくざい)~日本とアメリカ・憎しみを越えて~

NHKのウェブサイトにこうあります。「憎悪が、世界を覆い尽くしている。どうすれば、憎しみの連鎖を断ち切ることができるのか。その手がかりを与えてくれる2人の人物がいる。70年前、殺戮の最前線にいた日米2人のパイロットである。」


私は、デッシェイザーを個人的にしています。真珠湾を爆撃した淵田と東京名古屋を爆撃したデッシェイザーがキリストの十字架によって、罪が赦され、互いに心が結ばれ、共に伝道しました。

聖書・エペソ2:16後半「敵意は十字架によって葬り去られました。」


ぜひ、見て下さい。


YouTubeにもあります。NHKスペシャル ふたりの贖罪(しょくざい)~日本とアメリカ・憎しみを越えて~ - YouTube


Tuesday, August 2, 2016

「人とは?」 詩編8編 



先ず、下の8編を読んで下さい。

指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌
1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
あなたのご威光は天でたたえられています。
2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。


私たちは、しばしば、夫、妻、子供、恋人、名誉、業績、地位、お金、仕事などを通して自分の存在価値を得ようとします。でも、それは、極めて弱い土台です。。。鏡は、自分の光や美を作る事は出来ません。鏡自体には、美とか光はありませんし、それを生み出す力はないです。向かい合っているものによって、その美や光があるのです。あなたは、自分の内を探ったり、人の意見を聞いたりして、自分の真実の姿を知ることはありません。人間の真実な姿、その存在価値は、神の御言葉〜聖書〜から来ます。。。詩編8「人間とは、何でしょう?」聖書は、2−4、人間をとても低く見ていますし、同時に、5−7、とても高く見ています。高慢にならず、自己卑下もしない。

1.2−4、人間の卑しさ。つたない、とるに足らない者です。

一、2節、「幼子」と「敵対する者」の対照。1節、私たちは、神の「力強さ」や「威光」をどのようにして分かるのでしょうか?先ず、2−4、人間の小ささ卑しさからです。2節前半、神は、小さき弱い「幼子の口によって、復讐する者とをしずめ」るのです。権力者を、小さな者を通して、治め、支配するのです。

戦国時代の細川ガラシャ婦人は、あの本能寺の変の明智光秀の娘でした。父の謀反(むほん)によって、彼女は、夫・細川忠興(ただおき)に捨てられました。帰って来た時、彼は、他の女性を妻とし、ガラシャは、ヘアにずっと閉じ込められていました。でも、その望みない時に、キリストに出会ったのです。そして、ガラシャは、後ヨーロッパでこう歌われる事になるのです。「見よ、見よ、彼女は、辛苦(しんく、辛い苦しい事)の末に勝利を得た。拷問の苦しみを超えて勝利を得、苦しみを超えて勝った、全て聖なるキリストのもとに。」小さき者が権力者に勝ったのです。卑しいという言葉に、取るにたらない、つたない、という意味があります。世間から見たガラシャ夫人のように。でも、よりきつい卑しさが人間にあります。ガラシャの父・明智光秀は、信長を撃った卑しい者でした。ガラシャ夫人の夫も、卑しい者でした。彼女を人質にしようとし、死に追い込んだ石田三成も卑しい者でした。。。私たちの心にも、卑しさがあるのです。

二、3−4、「月や星」と「人」の対照。神に導かれて、この詩編を書いたダビデは、羊を飼っていた若い時でした。しばしば、夜、天を見上げて、3節、神が造られた「月や星を見」たのです。。。私も、一回、群馬県と長野県の境にあった標高3000メートルほどのキャンプ場で外に寝ていました。上を見て、信じられないような星の数でした。数分ごとに流れ星がすーっとすーっと流れていました。。。ダビデは、夜空を見て、4節、人間の小ささや卑しさを思い出しました。「人とは、何者なのでしょう。」私たちは、宇宙と比べて、ちっちゃい、ちっぽけなものです。。。4節の「人(エノーシュ)」は、「弱いもの」・「もろいもの」・「死すべきもの」という意味を含んでいます。「人の子」(ベン・アダーム)は、「土より出たもの」の意味です。。。パスカルがパンセでこう言いました。「人間は自然の中で一番弱い葦であるにすぎない。」

20世紀のはじまり、ハバード大学の哲学部のエマーソンホールが建たれている最中でした。屋根の目立つところにあるものが刻まれることになっていました。教授達は、考えて”Man is the measure of all things.”「人間を基準にして全てを測る」という言葉に決めました。でも、学長は、そんな人間中心の考え方に反対でした。教授達が夏休みから帰って来たら、建物は、完成してありました。でも、刻んであった言葉は、とても違っていました。この4節の言葉でした。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」人間は、つたない、とるに足らない者です。

聖書は、人間を着飾ったりはしません。聖書は、真実です。人間は、つたない、とるに足りない者だけでなく、罪人だと言っています。。。第2次世界大戦の後、ニュルンベルク裁判が行われました。多くのユダヤ人を殺害した犯罪者の裁判で、証人のユダヤ人が一人が見ていました。彼は、突然、気絶しました。どうして気絶したかと後で聞かれたら、彼は、こう答えました。「私は、彼は、怪物だと思いました。が、見たら、ただの人間だと分かったのです。」そして、不思議なことを言うのです。「私は、彼の立場にあったら、私は、同じ事をしたでしょう。」。。私たち皆の心にある原罪、罪を語っています。正直であったら、自分の醜さ、卑しさ、罪深さが見えます。ローマ7:24−25前半、ユダヤ系クリスチャンである使徒パウロは、こう書きました。「 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか?。。。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」

2.5−7、人間の尊さ。

一、5節、「人」と「神」との対照。(ここは比較と言ったほうが良いでしょう。)「あなたは、人を、神よりいくらか劣(おと)るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」造り主は、極めて崇高なお方です。そして、人間が次に位置して、最後に、動物が来るのです。創世記1:27前半「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。人間の罪と堕落の後も、神の似せて造られた事は、変わりません。。。「神の形」と言うのは、体ではなく、神のように、知識、意志、感情がある事です。動物と違って、神と交わる可能性があるのです。この世での神の代理人です。想像力や、人格、理性があるのです。劇術、言語、発明出来るのは、人間です。猿は「猿とは、何でしょう」と話し合ったりはしません。あなたは、偶然の産物ではありません。あなたは、とても尊いです。。。私たちは、池を見ると、自分の形を部分的に見えます。でも、鏡を見るとき、自分をはっきり見えます。人間でない物は、全て池のようです。部分的にだけ神を反映しています。でも、人間は、鏡のようです。神の栄光をとても反映出来るのです。。。5節、神は、人間に「栄光と誉れの冠をかぶらせ」ているのです。

二、6−7、「人」と「御手の多くのわざ」との対照。ダビデは、ここを書いた時、創世記 1:26のあたりを心にしていたと思います。「彼ら(人間)が、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」ここの詩編では、67「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。。。」動物を「治めて」いるのです。動物よりずっと尊いのです。

世間には「ヒューマニズム」(人間中心主義)があります。人間を神のようにします。2−4がそれを否定し、人間は、とるに足らない罪深い者、と教えています。しかし、聖書的ヒューマニズムがあります。矛盾にも聞こえます。が、人間のちっぽけさを覚えながら、反抗的な罪があっても、人間は、神に似せて造られ、神に愛され、キリストは、罪人の為に死なれた、と聖書にあります。。。私たち一人一人は、注目されたいのです。必死です。良い事やって注目を得なければ、悪い事をやって注目されたいのです。誰かに私たちの事を心にとめて欲しいのです。。。造り主がいなければ、私たちは、偶然の産物です。動物、機会、失礼ですが、理論的にゴミに過ぎません。でも、私たちは、人生をめちゃくちゃにしていても、ゴミではない、偶然の産物ではないのです。。。劇術家は、自分の作品を喜びを持って、眺めます。自分にとって尊いのです。そのように、神は、創世記1:31で、人間が作られた後、人間を喜び、「非常に良かった」と神は言ったのです。

CS.ルイスは、人間についてこう書きました。「平凡な人間というのは存在しない。普段私たちが日常生活の中で接している人たちはただ単に死に行くだけの存在ではないのだ。国家、文化、芸術、文明、これらはやがて滅びるもので虫けらの命のようなものにすぎない。しかし、冗談を言い合ったり、一緒に働いたり、結婚したり、時には裏切ってしまったり、付け込んでしまうこともあるが、私たちの周囲にいる人たちは永遠に滅びることのない存在であるのだ。。。私たちの慈愛というものは本物でなければならない。それは犠牲を伴うものであり、罪に対する深い認識は持ちながらも罪人そのものは愛するということだ。。。私たちの隣人というのは、聖餐式のパンの次に私たちにとって聖なる実存在なのだ。まして、その隣人がクリスチャンならば、なおさらである。その隣人の内に、。。。栄光そのものであるキリストが宿っているということなのだから、それほどまでにその隣人は聖なる存在なのだ。」

最近、NHKを見ながら、驚くように統計を聞きました。東京で毎日8人の老人が孤独死で死んでいます。年間、3100以上です。尊い老人が死んでいるだけではなく、見捨てられて孤独に死んでいるのです。。。私たちは、何をするべきでしょうか?この松本で、安曇野で。。。他の尊い人の為にも。

社会は、人間について両極端な考えを持ちます。人を動物や機械にしたり、逆に、人を神や仏にしたりします。天国にいる小畑進牧師は、こう語りました。「その中にあって、人間の卑小さ(ひしょう、取るに足らない事)の告白とその人間を引き上げたもう神の恵みの大きさをわきまえる詩人の思想は、どんなに歌われても、人間をあるべき、最も健全な位置につけて過ちません。この宗教は、人間を高慢な怪物にする事なく、また無意味な海底の泥とすることのないものなのです!」

3.1と9節、神の偉大さ。

人間の小ささ卑しさを見ると、もちろん神は偉大である、と分かるのです。でも、また、人間の尊さを見ても、神は、それより偉大である、と分かると、けして人間を誉め讃え崇めません。神のみを崇め誉め讃えます。1と9節「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地に(日本にも)わたり、なんと力強いことでしょう。」。。「力強い」という言葉は、優れている、栄光に満ちている、広大、偉大、崇高、威厳のある、輝かしい、壮大である、と言う意味があります。。。神の偉大さを見れば見るほど、自分の罪深さと尊さが分かります。神様が偉大であればあるほど、神が私たちの心にいればいるほど、神の輝かしさを見れば見るほど、自分の罪深さ、自分の尊さ、揺るがない真の自尊心が与えられるのです。これは、弱い自分から来るのではなく、揺るがない神から来るからです。

フランスのルイ14世は、4才の頃から王座に着き、72年間も支配しました。でも、自分の力に酔って、皇帝は、自分のことを「偉大な王、私が国家である」と呼びました。でも、他の人間と同様、1715年、彼は、亡き者となり、死にました。彼の葬儀は、彼が命じた通り、豪華で、遺体は、金と宝石の棺桶に入れられ、多くの方が参列しました。支配者の偉大さを演ずるために、大きな暗い会堂に、一本のロウソクが館の上に置いてありました。皆は、静かにその唯一の光を見ていました。指示された時、葬儀がはじまり、マシロン司教が、フランス全土の聖職者を含める、多くの方に語りはじめるところでした。立ち上がった時、司教は、講壇から手をのばしました。そして、彼は、ルイ14世の偉大さを象徴する、その唯一のロウソクの火をふっと消しました。皆が驚きました。それで、暗闇の中からこの言葉が響き渡りました。「神のみが偉大!」

そうです!神のみが偉大で、超越しています。でも「神の偉大さ」は、人類の歴史の中で不思議な方法で現れました。それは、十字架という弱さによってです。。。人間が高慢になり、堕落しました。それでも、唯一の神であるキリストは、御自身を卑しく低くしました。その十字架を通して、復活を通して、人に回復の道を備えました。主は、低くされた事によって、本来低いものである私たちを高く上げて下さいました。。。「私は、イエスを仰ぐ!イエスは、私を麗しくする為に、死にまで行って下さった。私が卑しくても、尊く思うイエスは、何よりも尊いのだ!詩編8:1、9『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地に(日本にも)わたり、なんと力強いことでしょう。』神に優れた恵みがあるので、この卑しい罪人のためでさえ、死を味わってくださってのだ!」

人の存在価値は、外見、人の評価から来ません。私の存在価値は、聖書で語られている神とその恵みから来るのです。私たちは、信じられないほど、罪深いです。でも、信じられないほど、愛されています。キリストの十字架を通して、私たちは、どれほど悪いか分かるのです。なぜなら、主は、その為に死ななければなりませんでした。同じ十字架で、どれほど愛されているか分かるのです。主は、私たちの為に、喜んで死なれたのです。

Thursday, July 21, 2016

ラベンダー


こないだ家内の奈帆と娘のホサーナと一緒に

「平凡な人間というのは存在しない。。。」


「平凡な人間というのは存在しない。普段私たちが日常生活の中で接している人たちはただ単に死に行くだけの存在ではないのだ。国家、文化、芸術、文明、これらはやがて滅びるもので虫けらの命のようなものにすぎない。しかし、冗談を言い合ったり、一緒に働いたり、結婚したり、時には裏切ってしまったり、付け込んでしまうこともあるが、私たちの周囲にいる人たちは永遠に滅びることのない存在であるのだ。。。私たちの慈愛というものは本物でなければならない。それは犠牲を伴うものであり、罪に対する深い認識は持ちながらも罪人そのものは愛するということだ。。。私たちの隣人というのは、聖餐式のパンの次に私たちにとって聖なる実存在なのだ。まして、その隣人がクリスチャンならば、なおさらである。その隣人の内に、。。。栄光そのものであるキリストが宿っているということなのだから、それほどまでにその隣人は聖なる存在なのだ。」C・S・ルイス

「あなた(造り主)は、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」聖書・詩篇8:5

Tuesday, July 12, 2016

『私の神、そしてあなたの神。』



ブレーズ・パスカルは、1662年に亡くなったフランス人の天才数学者です。31歳になるまで神から逃げ回った後、1654年11月23日夜10:30、パスカルは神に出会い、深く、そして揺るぎなく、イエス・キリストへと改宗しました。そのことを小さな布切れに書き記し、自分のコートの内側に縫い付けているのが、8年後彼が亡くなった時に見つかりました。それにはこう書き記されていました。
「恵みの年1654年、11月23日月曜日、聖クレメントの晩餐・・・夜10時半を過ぎたあたりから深夜12時半頃、火事。哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信と、心からの喜び、平安。イエス・キリストの神。イエス・キリストの神。『私の神、そしてあなたの神。』・・・喜び、喜び、喜び、喜びの涙・・・イエス・キリスト。イエス・キリスト。二度と主から離れることがありませんように。」
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」イエス・キリスト、聖書・ヨハネ15:11

もっと読む:人間は、もろい葦?キリスト信仰?

Monday, July 4, 2016

誕生日会


ステーキガストで、ジャン兄の家族と一緒に5人の誕生日を祝う。

皆。兄のジャンと奥さんのタミーは、まん中。

ジャンルーク&ピーター(2人のいとこ)と一緒に、
ホサーナ、ジャシュアとシェーンも。

2人の間には、メイガンちゃん、ジャン兄の可愛いやんちゃな娘。
家内(左)の誕生日は、6月19日でした。

Thursday, June 30, 2016

パット・サミット


パット・サミットは、何年か、アルツハイマーを煩い、こないだ、6月28日(64才)で天国に召されました。パットは、テネシーの大学の女性のバスケットボールで監督で、1,098勝を達成しました。オリンピックでも、金をとりました。米女子バスケの名指導者、パット・サミットさん死去 - スポーツ : 日刊スポーツ

パットは、選手にとても愛されていました。また、日本では知られていない事は、彼女は、熱心なクリスチャンでした。パットからは、このような引用がありました。「全てのものは、神から来る賜物である、と私は、知っている。」娘さんは、こう言っていました。「64年間の間、私の母は、先ず、救い主イエス・キリストとの力強い関係の中で人生を建て上げました。更に、彼女は、家族への愛と選手への愛、また懸命に努力して働くことヘの愛と言う基礎の上に立て上げました。これらは『あなたは、人生の中で人を大事にして勝つのだ』という哲学を反映していました。」

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を(十字架に)遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」聖書・1ヨハネ4:10−11

Wednesday, June 22, 2016


最近ジャン兄が父を尋ねました。(妹の近くのミシガンの老人ホーム)

母は、すでに天国にいます。母は、教会の奉仕をしながら、多く長野県のPTAなどで講演しました。

でも、父は、今年90才です。彼は、50年近く松本平でキリストとその十字架を伝えて来ました。驚く事は、長く有明高原寮(少年院)で聖書を伝えた父は、陛下さんから勲章を頂きました。

父の一番好きな聖句は、多分ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

Wednesday, June 15, 2016

極めて独創的な設計


「物理の(法則)は、。。。極めて独創的な設計(design、仕組み)の産物であるようです。。。宇宙には、目的がなければ成らないのです。」ポール・デイビズ、イギリスの宇宙物理学者(Astrophysicist)
"The laws [of physics] ... seem to be the product of exceedingly ingenious design... The universe must have a purpose".
「私にとって全ての浦に何かが起こっている、という強い証拠があります。。。宇宙を作る為に、誰かが自然の数(numbers)を微調整したようです。。。(宇宙が)設計されている印象は、圧倒的です。
"There is for me powerful evidence that there is something going on behind it all....It seems as though somebody has fine-tuned nature’s numbers to make the Universe....The impression of design is overwhelming".
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」詩篇19:1

宇宙がデザインされたと思う他の科学者の引用:Quotes from Scientists Regarding Design of the Universe


本:Amazon.co.jp: ポール・デイヴィス


Wednesday, June 8, 2016

ステップフォード・ゴッド


アメリカの"The Stepford Wives"(ステップフォード・ワイフという映画があります。ただロボットのように動くように、夫が妻にプログラムされたチップを入れるそうです。美しくて、素直な妻です。自分の好きなように動き話すようにするのです。困ったことを言わないのです。

ある男性は、喜ぶ可能性があるでしょう。でも、そのロボットの妻は、自由意志で、夫を心から愛し、大切に出来るでしょうか?"Yes man"という人がいます。が、本当に"Yes woman”を願っているのでしょうか?

でも、私たちは"The Stepford God"(ステップフォード・ゴッド)を祭っているのではないでしょうか?私たちも、神様を都合良いような神様にしたいのです。何も指摘しない、何も要求してこない神が欲しいのです。あるクリスチャンも、聖書の都合良いところだけを選びたいのです。

しかし、存在する神様とその言葉の素晴らしいところは、信頼出来るところは、私たちに、都合悪いこと、私たちの罪のことも、痛いですが、言って下さる事です。神様は、造り主で、神様が私たちにあわせるのではなく、私たちが神様にあわせるのです。「あわせること」が聖書で言う「悔い改め」(ギリシャ語でメタナオ)です。聖書によって、考えを変える事です。

あなたは、本当に" The Stepford God"のような神を願っているのでしょうか?

「神はモーセに仰せられた。『わたしは、『わたしはある』という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。』聖書・出エジプト記 3:14 


Thursday, June 2, 2016

「ルポタージュ」


ある人は、こう言うでしょう。「聖書には、色んな良い事が書いてある。でも、歴史的に信頼出来ないものもあるでしょう。あるものは、良いが、他は良くない。文字通り信じる必要はないでしょう。聖書は、全て信頼出来て、権威あると主張しちゃ変ですよ。」

これに対して色々言えますが、一つに絞ります。特に聖書の歴史性について考えましょう。

聖書は、けして神話、伝説、迷信とは言えないのです。神が私たちに人間を通して与えたまぎれもない歴史、真実、史実なのです。

例えば、ある人は、聖書は、現代の小説と似ていると言います。小説は、現在に多く読まれている現実と似たフィクシオンです。でも、小説は、18世紀頃から、初めて書かれたのです。聖書の時代になかったのです。

古代の聖書の頃にあった伝説は、次ように絶対書かなかったのです。医者ルカは、こう書きました。聖書・ルカ1:1−3「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。」

ケンブリッジ大学の文学博士C・S・ルイスは、聖書の福音書について、こう書きました。「私は、。。。一生涯、伝説、神話(など)読んできました。その特徴を(よく)知っています。(伝説、神話など)は、(福音書)とは全く違います。」

ルイス博士は、福音書を「ルポタージュ」記事、実録、記録と断言しています。聖書とその歴史性は、真実、史実で、信頼出来ます。生ける神の言葉です。