Wednesday, July 24, 2013

「空の空」18




「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることを、みなに知らせる。
支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから。私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている。
私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからずにかみつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない。
知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、みじめな狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。
愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの首長たちが、酔うためではなく、力をつけるために、定まった時に、食事をする国は。なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。
王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」聖書・伝道者の書10:1−20

日本には、危険と言う看板が多いです。でも、とても危険なものがあります。それは、愚かさの危険性です。伝道者の書の1章では、知恵の空しさを語りました。どんなに知恵があっても、造り主抜きでは、空しさが残るばかりです。それでも、神様は、この世に生きる限りは、知恵が必要だ、というのです。でも、ここでは、否定的に、愚かさの危険性を強調します。「愚かさの危険性」が伝道者の書10章のポイントです。


聖書では、知恵に関して、三段階の人々がいると教えています。知恵のある人は、優れています。この人は、知識を人生に適用します。また、無知な人がいます。この人は、何も知りません。でも、一番危険な人は、愚か者です。知っていながら、その知識を適用せずに、神に従わない人です。その歩みの危険性をここで語ります。


先ず、ソロモンは、まとめます。愚かさは、危険です。香水の中に入った「死んだはえ」が香水をだめにするように、「少しの愚かさ」でも、多くのものをだめにします。「愚かさの重さ」であります。愚か者は、間違っていることを知っていても、正しくない、愚かの道に歩みます。危険です。


次に、国の君主にも愚かな者がいる、とソロモン王は語ります。愚かな者は、一般庶民だけではなく、今で言う「政治家」にもいます。ここに知恵があります。権力者があなたに対して、「腹を立てて」罪を犯しても、「冷静さ」を失わないように努めています。でも「愚か者が非常に高い位につけられ」ます。。。私たちは、常に、政治家が口を滑らせることをテレビで見ます。でも、リーダーの悪影響は、多くの危険を冒します。尖閣諸島のことで戦争になる可能性もあるのです。。。でも、私も、家と教会のリーダーです。私は、真の知恵によって指導しているのでしょうか?


また、周りに危険なものが多くあると、ソロモンは注意します。「穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる」とあります。「山師は山で倒れ、川師は川で倒れる。よく泳ぐ者は溺れ、よくる者は落つ。」小畑進  猿も木から落ちるのです。人生には、確かに不確定な要素あります。ですから、愚かに生きると、なおさら危険です。


そして、ソロモンは、愚かな言葉も、とても危険である、と言います。「知恵ある者が口にすることばは優し(親)」い(親切)ですが、「愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす」のです。言葉は、救うし、滅ぼすのです。危険が待っています。その身にだけではなく、周りのものも滅ぼすのです。


「なんともはや、経文を講義する僧を見ていると、まるで立て板に水を流すような話しぶり。五時の八教のと到れり尽くせりの説明よ。自分で自分を学者だと口にし、人もみなそうだという。けれど、けれど、いざ根本は、と問うと、全く答えられない。」小畑進  

でも、ヤソ坊主の私も、自分を吟味する必要があります。小さい頃から「おしゃべり猿」(babbling ape)と言われました。でも、今も、私の口に愚かさが残ります。宣教師として、注意し、その罪を悔い改め、常にキリストを信じ仰ぐ必要があります。「根本」の福音に変えられる必要があります。


最後に、怠けることもとても危険だ、とソロモン王は告げます。ここでは、一般人だけではなく、先ほどの政治の怠りを描いています。「あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から(大宴会の)食事をする国は」危ないです。なぜなら「なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。」国家の政治家は、御用をせずに、愚かな心で怠け、福島の原発のように、国を危険に冒すのです。。。でも、また、私は、勤勉でしょうか?


10章の最後の文書は、おまけです。また、言葉についての注意です。「王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」『壁に耳あり、障子に目あり』です。電話に「盗聴器」ありです。


小畑進師がこのような例えを使いました。『ある神学校の遠足で、一同民宿に一泊。学生たちが寝物語りで、先生の〈品評会〉をやらかした。誰々先生は一流だが、H先生は三流と評した。実はその隣りの部屋はH先生の部屋だった。はたして、翌朝、朝食の時、お祈りが終って、H先生、箸をとると、「さあ、三流が飯を食うか。」と云った。学生たちは仰天。すると、H先生。「いや、なにね。横の藪雀が“三流々々”と、僕のほうを向いて鳴いていたのでね。」と。「天空の鳥、その声を伝え、羽翼ある者その事をべければなり。」を応用したのでしょう。その機転でH先生の株が一流に格上げされました!』


聖書の箴言で「主を恐れ敬うことが知識のはじめであり、愚か者はそれを蔑(さげす)む」とあります。どんなに人生の知恵があっても、真の神を神として大事にしないと、愚かであるのです。私の恩師エリオット・ジョンソン博士は、この「主を恐れる」ことは、主イエス・キリストを信じる信仰を含める、と言いました。ということは、キリストを無視すると、とても危険であるのです。愚かで、滅びに至るのです。でも、この御方を信じ敬うと、まことに安心出来るのです。


このように祈れます。「主よ。あなたを知らず、御支配をわきまえていなかった頃は、夜店の首ふり人形。チッポケな算盤はじいて人生算段。それも次々にが生じて青くなったり赤くなったり。しかし、一旦あなたの存在を知り、御支配・御摂理をたしかめてからはお委ねする平安を覚えて、自分の思いよりも御意が成ることを望める者となりました。」小畑進

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