Tuesday, May 28, 2013

『主われを愛す』



家内の奈帆は、私に「ニュースで『主われを愛す』を歌っていたよ!」と言いました。Google検索したら、やはり私達が小さい頃から歌っていた子供賛美歌でした。

ご存知のとり、先週、アメリカのオクラホマ南部で巨大竜巻が発生し、24人の尊い命が取られました。その中の7人が子供でした。

でも、その巨大竜巻の最中、バウライアーウッド小学校の先生、ワイナル・マイズ、と子供が「主我を愛す」を大きな声で歌っていました。先生がこう言いました。「多くの破片が私達の周りに落ちて来ました。そして、暗くなりました。それで、思い出せないのですが、私は続けて(「主我を愛す」を)歌いました。」Okla. students get standing ovation at memorial service - CBS News

ある先生達は、子供の救うために、自分を犠牲にして子供の上に体を伏せました。これは「主我を愛す」の歌のように、キリストの十字架の犠牲を表しています。

オクラホマの犠牲者は、こう言いました。「私達は、犠牲者として歩まない。」LATimes.com この子供賛美歌とその真理が希望の原動力となります。今の私たちにも力強く生きる力のとなります。

英語の歌詞:
Jesus loves me! This I know
For the Bible tells me so;
Little ones to Him belong;
They are weak, but He is strong.

Yes, Jesus loves me!
Yes, Jesus loves me!
Yes, Jesus loves me!
The Bible tells me so.

英語で聞く。Jesus Loves Me Childrens SongーYouTube

日本語の歌詞:
主 我を愛す 主は強ければ
我 弱くとも 恐れはあらじ
(おりかえし)
我が主イェス、我が主イェス、
我が主イェス、我を愛す

我が罪のため 栄えを捨てて
天(あめ)より降(くだ)り 十字架につけり
(おりかえし)

御国(みくに)の門(かど)を 開きて我を
招き給えり 勇みて昇らん
(おりかえし)

我が君イェスよ 我を清めて
良き働きを なさしめ給え
(おりかえし)
日本語で聞く。主われを愛すーYouTube

参考:讃美歌「主われを愛す」 歌詞と解説

Sunday, May 26, 2013

チャーリー


チャーリー、内らの"猛犬”(ジョーク、とても懐こい)
豊かな命教会の前で番、注意!なめられるかも。

Tuesday, May 21, 2013

世界有数の"ペン・マスター”



ジェーク・ウィードマンは、世界有数(11人の一人)の"ペン・マスター”(英:master penman、万年筆の達人)です。聖書の「主の祈り」(Lord's Prayer)や「キリスト」(Christ)が彼の信仰を表しています。彼は、こう思っています。『私達が創造する事によって「神に似せて造られた」ことを表している。造る書くことによって神とのより親密な関係を持つ。』

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。。。」神は人をご自身のかたちとして創造された。。。』創世記1:26、27

ジェークの能筆を見る:Tip of the Pen、Vimeo 英語ですが、彼の芸術を見るだけでもすごい。

ジェークのウェブサイト:Jake Weidmann これもまた素晴らしい!

Friday, May 17, 2013

あの有名な言葉『ヨハネ3章16節』



新島襄は、漢訳の聖書を、一字一字を追うようにではあるが、英語で読むよりは、はるかに速く、正確に意味を理解できるようになった。マタイによる福音書からはじめて、マルコ・ルカを読み進んでいった。ヨハネによる福音書まで来た時、あの有名な言葉ー3章16節に達した。そして、これから先に進めないほどの感激を覚えたのであった。

『神はそのひとり子をたまわったほどに、この世を愛してくださった。それは、み子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである。』

彼は、聖書をおいて、祈らざるをえなかった。「神よ。あなたはこんな私のために、ひとり子をあたえてくださったのですか。救ってくださったのですか。これこそ私の求めていた救いです。主イエスこそ救い主です。」

Tuesday, May 14, 2013

ピクニック


5月3日、蓼科までドライブ

シェーンが鉄砲が好きで

ジャシュアとホサーナはゴーカート

Saturday, May 11, 2013

「空の空」シリーズ


2009年の3月から「空の空」シリーズをはじめました。ソロモン王が神様に導かれて書いた聖書の伝道者の書からとっています。「伝道者の書は、西暦前1000年頃、ソロモン王によって書かれました。正に釈迦の500年前のことです。私の推測ですが、仏教の『空』と言う考えは、意味が違ってても、このソロモンの言葉から来たのではないかと思います。」。。。一つ一つ読む時、先ず、聖書個所を読んでから、その説明を読んで下さい。


パンセ II: 空の空 (1)初め

パンセ: 「空の空」 2 お疲れ様!

パンセ: 「空の空」 3 「日の下」

パンセ: 「空の空」 4 教育

パンセ: 「空の空」 5 快楽

パンセ: 「空の空」 6 永遠の角度

パンセ: 「空の空」 7 仕事

パンセ: 「空の空」 8 「時」

パンセ: 「空の空」 9 「しいたげられる者」

パンセ: 「空の空」 10 共存

パンセ: 「空の空」 11 教会に行く姿勢

パンセ: 「空の空」 12 富

パンセ: 「空の空」 13 真の満足

パンセ: 「空の空」 14 ベスト

パンセ II: 「空の空」 15 性善説?性悪説?

パンセ II: 「空の空」 16 国家

パンセ II: 「空の空」 17 運命

パンセ II: 「空の空」 18 愚かさの危険性

パンセ II: 「空の空」 19 働く意義

パンセ II: 「空の空」20  「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

パンセ II: 「空の空」21 「結局のところ」

続く

Sunday, May 5, 2013

めぐみー引き裂かれた家族の30年


最近、映画めぐみー引き裂かれた家族の30年」を買い、家内と一緒に見ました。その中で、横田早紀江さんが自身のキリスト信仰について話しました。

「なんか,私は,弱虫だからね。。。このことで、叩きのめされちゃって、ほんとう。。。ぺったんこまでいって、底まで落ちましたから。。。悲しみで。。。それで、もう死んだ方が良いと思ってた時があって。。。お友達がね、新潟のバイブルクラスっていうのを前からやってたんです。バイブルって読んだことがなかったんですけど、お友達が聖書を一度読んでごらんといって。。。ヨブ記の1章21節だったと思いますけど、『主は与え,主は取られる』っていう箇所があるんですよね。与えられるのも神様だし、もう、これはダメですっていくら人間が放したくないと思ってても、今取りますと言われたら,パッと取りますのも神様って言われたときに、そのことは悲しいんだけど、その悲しさの中で何をもっと与えられるかってことが分かったんですよね。その箇所を読んだとき、本当にもう何か、ああ、そうだっていうか、何とも言えない思いがしましたですね。」

「そして(ヨブは)言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」聖書・ヨブ記1:21

署名活動は、100万人を超えています。拉致解決求める1千万超署名- MSN産経ニュースめぐみさんをはじめ、拉致された方が解放されるように、阿部政権も大胆に働くように、祈りとりなしをしましょう。

Friday, May 3, 2013

信州大学


豊かな命教会で奉仕しながら、私は、月、火、金、信州大学でやく210の学生(7クラス)にライテイング(Writing)を教えています。学生が「栄える」ように心から願っています。

Wednesday, May 1, 2013

「空の空」17



「というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。
さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行いを喜んでおられる。いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。
私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。
私はまた、日の下で知恵についてこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。私は言う。「知恵は力にまさる。しかし貧しい者の知恵はさげすまれ、彼の言うことも聞かれない。」知恵ある者の静かなことばは、愚かな者の間の支配者の叫びよりは、よく聞かれる。知恵は武器にまさり、ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす。」聖書・伝道者の書9:1−17


私達人類は、占いを通して、専門家を通して、予言を通して、未来について知ろうとします。何とか先について知れば安心するのです。が、私達自らは、将来について、未来について本当は何も分からないのです。この箇所で何回も「人は知らない」とあります。しかし、神から見ての真の義人は「神の御手の中にあること」は確実です。

全ての人は、同じ運命ー死ーを体験するのです。ソロモン王はこう言っています。「同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。」対象的な人が出て来ます。自分が道徳的に立派だとう思う人、誰から見ても「悪者」と思える人、宗教的な人、「善人にも、罪人にも同様である」とソロモンはまとめます。正直であれば、人は、自分の行ないだけではなく、「心は悪に満ち」ている、と悟るのです。でも、その「結末」は「死人のところに行く」のです。「ひとたびは死ぬるなりけりおしなべて、釈迦も孔子も猫もも。」それは、二つに分けられます。神の御手の中にある」か、ないかによって分けられます。永遠の滅びか、永遠の喜び。

でも、神は、「神の御手の中にある」者は、こう勧められています。「実は死後の世界こそ本番」であることを覚えながらも、今は「喜んで。。。愉快に。。。パンを食べ。。。酒を飲め。。。妻と人生を楽しめ。。。」また、一生懸命に働け、とあります。神から受けた恵みを楽しむのです。

しかし、また、ソロモンは、テーマに戻ります。人生を楽しみながらも、生きている間、私達自らは、将来について、未来について本当は何も分からないのです。また、ソロモンは、繰り返します。「人は自分の時を知らない。」人生でする事の結末は分からないのです。必ずし「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会(コントロール出来ない事)に出会うからだ。」実力のある人は、必ずしも成功するわけではないのです。「亀さんが兎さんに勝つことがある。」人生でコントロールできないことはあまりにも多いです。「。。。網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう」のです。将来は、分からないのです。「あてにならぬ世の中」です。

最後にソロモンは、人の未来や結末が分からないことを例えるのです。ある小さな町に、ある王様が攻めて来て、町を包囲しました。が、その町に、知恵のある貧しい人がいて、その知恵を通して町を解放しました。しかし、彼の悲しいで結末は「だれもこの貧しい人を記憶しなかった」のです。忘れらてしまったのです。ソロモン王は、正しくこう結論ずけます。「知恵は力にまさる。しかし貧しい者の知恵はさげすまれ、彼の言うことも聞かれない。」普通は、「知恵ある者の静かなことばは、愚かな者の間の支配者の叫びよりは、よく聞かれる」はずだし、「知恵は武器にまさる」はずです。しかし「ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす」のです。やはり、コントロール出来ない事や、(この場合は「罪人」という)人がいるのです。

小畑進牧師がこの例えを使いました。「かつてアレキサンダー大王がランプサカスという町を攻めた時のこと。その町にアルキシメネスという知恵者がいて、アレキサンダーに謁見を求めて来た。アレキサンダーは初めから彼に向って、まず、『お前が求めるところは決して用いないぞ』と宣告しておいた。すると、アルキシメネスは、『それでは、どうか、わがランプサカスの町を滅ぼして下さいますように』と願った。それを聞いたアレキサンダーは、さきに『お前の願いを決して用いない』と云った手前、ランプサカスの町を攻めることができなかったという。こういうのを知恵の勝利というのでしょう。けれども、町の人々はこの知恵者に報いるところがなかったという。」どんなに知恵があっても、先が分からないし、コントロール出来ないのです。

将来や未来について知らない事が多いからこそ、その「神の御手の中」に自分を委ねる事ほど大事な事はないのです。なぜなら、過去も現在もそうですが、将来と未来も神の御手の中にある」です。神は、全てを造られ、歴史をはじめられ、国々を治めているお方です。神は、私達の知らない将来と未来をコントロールしているのです。「人生という迷宮の扉は日の下からは開けられないが、日の上から、天から開かれる。」小畑進

また、この偉大なお方の手に釘が打たれたのです。そうです。イエス・キリストのことです。全てを治めている方は、十字架につけられたのです。「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」聖書・2コリント5:21 そして、キリストと同様に私達はこう祈れるのです。「父よ。わが霊(わが全て)を御手にゆだねます。」聖書・ルカ23:46