Tuesday, May 1, 2012

「空の空」15



『私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。知恵は町の十人の権力者よりも知恵者を力づける。この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。私は、これらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵ある者になりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見きわめることができよう。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪行と狂った者の愚かさを学びとろうとした。私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕らえられる。見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである」と伝道者は言う。私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。』聖書・伝道者の書7:15−29


私たちの教会に来た方は、このような質問を聞きました。「キリスト教は、性悪説ですか?性善説ですか?」その日、私たちの教会に来ていた牧師は、こう答えました。「両方です。」

ソロモン王は、この箇所で、おもに「性悪説」を取り上げます。が、最後に「性善説」にふれます。ソロモン王は、次の質問の問いに答えます。『なぜ私たち人間は、自分の義(正しさ)に頼らないのでしょうか?』

1。15−18、義人も、不幸にあうからです。いわゆる「義人」であっても、災害に、究極的には死に、必ずあうからです。著者は、けして『正しいことをするな』と言っていないのです。『自分の義を頼りにするな』と言っているのです。不幸の時、あなたの義はあまりにも頼りないのです。不幸の時は、正しいか、正しくないか、は関係ないのです。不幸は、皆に降り掛かることです。特に、正しい人に、不幸が降り掛かる時が多いです。

逆に「神を信じ恐れ敬えよ」とあります。神は、自分の弱い義より、ずっと頼りになれるお方です。

2.19−22、真の意味で完全に義人はいないからです。文字通り「この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。」「知恵」または「義」は、とても素晴らしいです。しかし、ソロモンは面白い例えとお勧めを取り入れます。「あなたのしもべがあなたをのろうのを」“真に受けない”ない方が良いと言っています。なぜなら「あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」皆に課題(罪、過ち)があるからです。完全な人はいないから、自分の自らの義を頼りにしてはならないのです。

天に召された小畑進牧師は次のように書きました。「他人から何か云われたら、自分も他人のことを中傷していたことを忘れぬよう、と。いわゆる〈中傷企業〉社長にならぬよう。あなたと同じ者同士の仲なのだ、と。もの云えば唇寒しなのだ、と。」

3.23−26、「知恵」すなわち「義」は、私たちから遠いからです。ソロモン王は「知恵」を「試み、見きわめ、学び、探り出し、捜し求めた。」23節「しかし、それは私の遠く及ばないことだった。」ソロモン王は、中国の孔子以上の賢人でした。しかし、知恵を熱心に試みた彼は、真の知恵と義は、自分から「遠い」と分かったのです。

しかし「神に喜ばれる者」また、愛される者、恵まれる者は「悪」から「逃れ」、救われるのです。義が自分から遠くあっても、神が近ければ、それで良いのです。

使徒パウロは、こう告白します。『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。』聖書・1テモテ1:15 彼は、宗教にどっぷりつかっていましたが、自分の体験をこう書きました。『私は以前は、(正しいことをしてたと思っていたが)神をけがす者、(教会を)迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。。。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、(日本人を含める)今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。』そして、こう結ぶのです。『どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。』罪人を救う神に栄光です!

4.27−28、文字通り「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ」からです。

「神に造られた時は、正しい存在だった。それなのに、屁理屈を並べたてて、ごまかし、堕落してしまっているー。これがわが伝道者第七章の答案でした。人は神に造られた時は正しかったが、やがてあれやこれやと理屈をひねって悪くなった。」小畑進

このように、神は、人間を造ったとき、人間は「非常によった」とあります(創世記1章)。「性善説」です。しかし、神に背を向いた時に人間は堕落したのです(創世記3章)。「性悪説」です。堕落した人間は、頼りない者です。神のみ真に頼れるのです。

先ほどの使徒パウロはこう語っています。「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗く…神を知ろうとしたがらないので…彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を云う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らはそのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」聖書・ローマ1:21−23

しかし、また「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」とイエス・キリストは言いました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」聖書・ルカ5:31−32 イエス・キリストは、十字架上で、偽善者(自分が正しいともう人)の為に死なれたのでははく、罪人(自分の義に頼らない人)の為に死なれたのです。罪を認め、救い主イエス・キリストにすがりましょう。

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